文字通りに襤褸襤褸だった。
鎧は至る所が罅割れて欠落し、あちこちの負傷した箇所からは出血が止まらずに赤黒くなっている。右手で握り締めた業物の刃も柄も、三分の二以上が折れて使い物にならず、蓄積したダメージは既に許容量を遥かに越えていた。
両の奥歯を出来る限りに喰いしばる。ふらつく頭でどうにか前を見れば、相手である女子は場違いにも微笑んでいる。
其の毳毳しい、ショッキング・ピンクの虹彩を持つ眼は、黒のペンキをぶちまけた夜の中で妖しく光り、人間とは一線を画す底の深さを漂わせていた。
彼女の後ろには厳かなチャペルが控えている。皆既月蝕の赤い月に照らされて聳える其れは、幾度も通って慣れた筈の建築物とは到底思えない程に恐ろしかった。
「ほら、もっと遊びましょ?」
瞬間に静まる空間に、彼女が微笑んだままに放った無茶な事は、とても良く通った。襤褸襤褸にしたのは自分のくせに、覚えが無いとでも言うのだろうか。
届くのならば、其の顔に鉄拳を見舞いたかった。
「・・・・・・やろうぜ」
自棄から出た言葉だった。有言実行で歩み寄って殴ろうとしたが、脚からの応答は無く、歩行は無理だった。
其れを察したのか、彼女が此方に歩いてきた。石とコンクリートの中間の様な材質の道に靴音を響かせ、悠然とした態度で向かってくる。靴音が止めば、トドメを刺されるのだろう。
最早勝機なんて微塵も無いのは解っていた。だから負ける前に、奴に最後の一撃を浴びせてから負けようと考えた。
朽ちた刀身で両断なんて高望みはしない、せめて額を割れれば其れで満足だ。殺す事が出来ないのならば、せめて永く残る傷を刻めばいい。
顔は女の命の一つだ、傷が付けば簡単には嫁に行けまい。精々惨たらしい痕を受けて“行けず後家”になってしまえ。
今一度、奥歯を喰いしばって活を絞り出す。重たい右腕が軋みながら徐々に上がり、体の各部が連動して振り下ろす構えになっていく。
損傷が激しい左脇腹から血が余計に滲み、右手が小刻みに震えてカチカチと業物が鳴っている。気温による寒さ、死ぬ事への脅え、勝てない悔しさ、女の命を汚す興奮。ゴチャゴチャと全てが有って、故に全体が何なのかが見えてこない。或る意味、『無』というのは此の事を言うのかもしれない。
刀身の先端が空を向いた。
「今まで一番、勇壮な姿」
靴音を止めて彼女が言った。止めたが彼女は手を出さず、此方に丁度良い位地で佇んでいる。敢えて足掻きを受けてくれる様だ。
ナメられている。
普段は気にも留めない感情に、今は大いに反応して怒りが生成されていく。
相手から贈られた活のブースター、存分に使わせて貰うとしよう。
「あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
有らん限りに振り下ろす。刃が頭蓋骨を捉え、抉った感触が右手に伝わった。
さしもの彼女も、道を背に空を仰ぐだろう。そのつもりでやったのだから、当然である。
此方は振り切った勢いで、体が彼女の方へ倒れていく。留まる気力も、踏ん張る脚力も何もかもが無く、どうにもならない。
終わったのだ。出会った日から、今の今まで続いた思わぬ体験の日々。負けて終わりでも、奴に一矢報いたのだから良しとすればいい。フェードアウトしていく意識だったが、充足感を確かに感じていた。
―――うふふ。
ガクンと、体が斜めのまま急停止した。衝撃で業物が手元から離れて地に落ちる。脚はだらんと『くの字』に曲がり、体の角度を鑑みても決して自立出来る姿勢ではない。
次第に帰ってくる自意識と感覚。自分の首には相手の肩が添えられ、両上腕は両手に掴まれている。此の状況は相手に寄っ掛かり、相手が自分を支えてくれている。
緩やかに体が相手から離される。両腕が伸びきった所で、相手の顔が見えた。数秒前と何ら変わらない、傷一つ無い彼女の微笑みだった。
“やっぱり何とも無い”
「えぇ・・・・・・」
軽く両腕が曲げられたのも束の間、優しく突き放された。後の事は、ハイスピード・カメラの様な映像だった。
彼女が冷笑したかと思うと、眼と同じ色の揺らめく物を何処からか両手に纏った。突き放したままの形の両手の空間にバスケットボール程の毳毳しい色の光球が生まれ、瞬の間を置いて其れはブッ放された。
光球は此方の胸に直撃し、鎧から真紅の火花が盛大に散った。昇ってきた階段の上を、凄まじい勢いで吹っ飛んでいく我が身の前面は、数多の筋肉と器官がブチ切られ、骨々は見事に粉砕され、血と其の他の体液でグチャグチャだ。
光球は色を保ったままに数多の粒子となって飛散し、素肌から此方の体内に取り込まれながら体其の物は階段下に停めていたバイクに背中から激突し、それなりの距離を共にスリップした。
勢いが無くなると、横倒しのバイクを枕にした形になった。鎧は解け、纏う前に着ていた私服に戻っている。
ジャケットの下のロングTシャツが瞬く間に血に染まっていく。今度こそ本当に終わる、負けるよりも悲愴な『戦死』という形で終わっていく。
唐突に脳裏が可笑しくなった。深夜だと言うのに、視界は曇天の昼間なのである。周りを若い男女達が行き交い、たった今過ぎた目の前の階段を昇っていく。
其の中に見慣れた姿を見つけた。覇気の無い顔、隙だらけの猫背、背負っているプレイステーションのロゴが入ったリュック、“独創的”なコーディネートの服装。
あれは数ヵ月前の自分だ。ならば此れは走馬灯の始まりだ。死にかけの意識は走馬灯の自分と一体化し、行動をなぞり始める。
そうして時を遡り、全ての始まりとなった十月十九日の二限目に、赤城 司は戻っていった。
PR