此所に一つの湖がある。 正確には湖ではなくて『巨大な水溜まり』とした方が正しい。流れ込む河川が無く、底から湧き出る湧水で水量が維持されているのは、法的には水溜まりに分類される。 そして今、其れは人と同じく眠っている。緩やかに降る月光を掛け布団にして、正に快眠だ。 水中に住まう生物も活動を控えて住まいを休ませ、より長く環境が続くように自身も休む。 辺りは人間に馴染みの薄い、純度の高い静寂にすっかり包まれていた。 流れ込む河川が無いから、それに乗って音が来る事も無い。無論、空から音を落とす無粋な輩も殆んどいない。 そんな恵まれている場所へ、ふいに風が水面を吹き抜けて、細波を起こした。 風に誘われるままに細波は進む。進んで進んで、湖の中心の所で、唐突にぶつかった。 後続の波も次々にぶつかり、どれも突破出来ずに、底へ沈んでいく。 事が起きている遥か宙には、見事な満月が静かに在る。 人間は昔から、眼で見て、体で感じた物を畏怖しては神格を与えて奉り、日本人は月に対して『月讀』を配した。対である太陽に『天照』は言うまでもない。さらには火や水や風や雷や土等々、この国の『表向き』にはカミが溢れているのだ。 先程の波の件、原因は至極簡単だ。御座所にぶつかったのだ。 端からは水面に座している少女。藤色の髪を風に靡かせ、髪と同じ色のチューブトップのマキシワンピースを着て、其の上にジージャンを重ね着し、のどかに月見をしている。 外見は高校生といったところで、月光に照らされた顔はあどけなく、浮かぶ微笑みは愛らしい。しかし側頭部からは、立派な一対の角が後ろに向かって生えている。水神として名高い『龍』の物だ。 ふいに少女は履いていたカントリーブーツとスニーカーソックスを脱ぎ、御座所の縁に移動して、ちゃぽんと両脚を浸した。 明日の予定に思いを馳せて火照っていた自分に、四月目前の水温は何とも心地好い。泳ぎたかったが、学校のプールで見掛ける『腰掛け』のバタ脚で我慢をする。暫くそうして静寂を乱し、楽しみを出来る限りに増幅させていく。 漸く縁から足を揚げ、付いている水を飛ばしてソックスとブーツを履く。そして立ち上がって眼を閉じると、彼女が身に着けている衣服や靴、更には彼女自身が末端から徐々に水と一体化していき、終いには完全なる『水』となって消えていった。 御座所が無くなった水面は波紋さえ浮かべる事も無い。 只々、其処は静かであった。 PR |
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